あらあら大変ね

いろいろです

頼んでないよ、作ってなんて

 

フランケンシュタイン (新潮文庫)

フランケンシュタイン (新潮文庫)

 

 

何故ドラキュラに引き続きこれなのか……普段こんなに古典を続けて読んだりしません。これもどきどきミステリーランドで読んだきり。あとデ・ニーロ主演の映画も子供の頃に観ました。

なので「フランケンシュタインは作った人の名前で怪物の名前じゃないよ!」とか「怪物は可哀想なやつなんだよ!」とかはだいたい分かります。分かった上で読んでみようシリーズ?

 

あらすじ:マッドサイエンティストは神様になれませんでした。

ひとこと:責任なんか取れません

 

 

まさかこんなにフランケンシュタイン博士にイライラするとは思いもよりませんでした。これ、新訳だからか?と思ったけれど行動自体は何も変わっていない訳だから、やっぱり本人が悪いんじゃんと中盤くらいまでは思います。

 

「生命を創る」というあくまで崇高な目標に取り付かれた挙句実験に成功するも己のしたことの悍ましさに苦悩するフランケンシュタイン博士……という漠然としたイメージは合っているとは思うんですけどね。

  • いざ生命のスイッチオンするぞ!という段階で、「え?俺が作ったものすごく醜くない?」と唐突に気づく。設計段階で気づいて!新国立競技場か!
  • 気づいたもののスイッチオンしてみたらやっぱり醜いので放置して取り敢えず逃走。帰ってきたらいないので放置。これが良くなかった。
  • その後息子(怪物とは書きたくないので以下息子)の仕業で無実 の友人が投獄されても、「これ話したら俺頭おかしいと思われるだろうし誰も信じてくれないだろうな」と思って話さず友人は縛り首。おかしいと思われてもいいから話しておけば何か違ったかも……まあわかんないけど。
  • 息子に「まあ父ちゃん話聞けよ」と言われても「聞きたくない」の一点張り。「俺の醜い顔を見ないでおけば聞いてくれる?」と気遣ってデカイ手で目を塞いであげる息子。
  • 「俺は醜いから同じくらい醜い嫁さんを作ってくれ」と頼まれ承諾するもなんとなく気が進まないので友人と旅行。*1

あのさあ!!!!!

 

お前さあ!!!!!

 

まあ確かに?博士は年頃20前後、話の中で行ってて25歳くらいかな?若いのにいきなりパパになっちゃったらそりゃ動揺するよね~~~って慰めておけば満足か?え?

私分かりました。この責任感の無さこそが「マッドサイエンティスト」たる所以なのです。やってることが非人道的だとか常軌を逸しててもいいのかもしれません責任さえ取れれば、一般人から見たら研究者なんて多かれ少なかれ狂ってますから。

やってることに対して責任感を取れない科学者を「マッドサイエンティスト」ということに定義しましょう。だから「鉄腕アトム」の天馬博士はマッドサイエンティストだ!敷島博士も危ないぞ!だとしたら日本中がマッドだ!マッドマックスだよどうするんだよ新国立競技場は!

 

このノリで最後まで行くのも疲れるわい。

フランケンシュタイン」最大の悲劇は、ヴィクター・フランケンシュタインが、神様に値する人間ではなかったことです。彼はその責任に、やっと最期のときになって気づきますが、時既に遅く、その義務感は創ったものへの慈しみではなく、自分で落とし前をつけること=息子を殺す、になってしまっていた。

そして息子の方もそれは同じ。相互理解が出来なかった親子の物語に思えます。

 

神様、ではなくやはり「親」といった方が近いんだろうな。実際問題、神様は我々に対して無責任といえば無責任ですから、「親」の方が責任がありますね。といっても副題にあるプロメテウスは一応自分で火を盗んだ罰に耐える責任感のある珍しい神様だけどね。

だから私はこの怪物をせめて「息子」と呼ぶのです。親が親になり得なかったために、愛されることのなかった「息子」なのです。

それにしたって息子の言うように、親ではなくともいいから彼を理解してくれる誰かがいれば変わっていたのかもしれない。今の言葉で言うと「毒親」から脱却出来たの。正直見目もう少しよく創ることに思い至っていれば大概の悲劇は避けられたところが複雑である……人は見た目がすべて、なのかー。

 

初めて人間(※盲目で息子の姿かたちは分からないおじいちゃん)と言語でコンタクトを取ろうとするシーン、言葉一つ一つ、万感の思いで望んだであろうその時の息子の胸中を考えると苦しい。でも一番好きなシーンです。本当に誰かと話したい、コンタクトを取りたい、愛されたいという一番の願いでいっぱい。あと言葉が聞き分けられるようになってきた時、初めに分かり始める言葉が「よい」「愛しい」「不幸せ」なのもね……。

新訳は読みやすいけど、やや読みやすすぎる感じが。創元推理の方も読んでみようかな。

 

M・シェリーはこれを若干20で書いたのですが、いわゆる作家の悪夢として有名な「ディオダディ荘の怪奇談義」での執筆エピソードも前文で書かれてます。何かを書くというのは大変なことだよなあ、うんうん、と偉そうに頷きながら読みました。

シェリー夫婦はお互いを好きすぎますね(色々ありすぎる夫婦なんだけどね)。

*1:どうもこの辺の風景描写は、作者M・シェリーが実際に旦那との執筆中の旅行で見た風景らしく、恐らくその体験は幸せなものだったんだと思うんだけど事態は結構逼迫してるんだもの