愛してると言ってくれ
去年書きかけていたNTLの「フランケンシュタイン」の感想?を、もったいないので今更あげておきます。今またリバイバルやってるみたいですね。感想というよりメモです。タイトルはトヨエツです。「フランケンシュタイン」はねえどうしてすごくすごく好きなことただ伝えたいだけなのにルルルルルーな怪物の話です。
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(観劇日9/5+9/16)
今年の夏は何故かフランケンシュタインがらみでした。
丁度ナショナル・シアター・ライブでフランケンシュタインが再上映ということで観てきました。あと、コッポラの映画も観ました。
主演の(みんな大好き)ベネディクト・カンバーバッチと(実はこっちもホームズ)ジョニー・リー・ミラーが博士&怪物をそれぞれWで演じるという企画です。
お互いに大役なので、とても贅沢な企画ですね。この作品で二人はローレンス・オリヴィエ賞の主演男優賞をとっています。演出は映画監督のダニー・ボイル。
あらすじ:平穏な幸せは手に入らないようです。
ひとこと:でもこれはハッピーエンドではないか?
両バージョンに通じること(脚本・演出的なこと)と、それぞれのバージョンから受けた印象をなんとなくメモ。
この演出意図、この二人はお互いの鏡で、お互いにそれぞれを演じることで際立たたせるという目的があったようです。それにしたってどちらも大変な役なので演劇大国はすごいことやるな~~とそれだけで感動してしまった。
強いていえばタイトルロールの方が身体的にやや楽といえば楽?という不思議な事態。なんじゃそりゃ。怪物(この呼び方釈然としませんが)はまず自我を持って歩き始めるところから、世界に驚き学んでいくところから作って行くので。
インタビューで身体麻痺のある人のリハビリ姿と、まだ小さな子供の動きを組み合わせて参考にしたと言っていました。だからか、怪物は常に懸命で愛らしい。
日本ならホ○プロ辺りが版権取って若手俳優使ってやりそうなんですけど、日本じゃ実現不可能な気がするな……。
舞台は多分背景は布張り?なかなか背景の仕組みがわからず。
天井から無数の裸電球とランプが釣られていて、感情に合わせて点滅したり煌めいたり。回路どうなってんだ:(;゙゚'ω゚'):
マッドサイエンティストのお約束「ついに……ついに完成したぞ!ハーッハッハ!!」(ゴロゴロドンガラガッシャーン)の役割も果たします。*1
あとは歌舞伎でもおなじみの盆、盆の半分は奈落に通じていて、それを突っ切るように線路の路線、これが花道まで続いています。
脚本は原作に忠実と言えば忠実です。一番大きな違いは博士ではなくクリーチャーの立場から物語が進むところです。
原作の最初と最後に出てくるウォルトン船長や、博士の親友クラーヴァルは出てきません。あと女中もジュスティーヌ(ジャスティン?)ではありません。女中はおっぱいがデカイです。
エリザベスとお父様は黒人の役者さん。ウィリアムは日によって違う子役がやっていて、最初に観た時博士以外全員黒人の家族だったので、何か意味あるかと思ったら次のバージョンではウィリアムは白人だった……。
で、これもよくある改変ですが、アガサとフェリックスは夫婦です(原作は兄妹)。言葉の取得はフェリックスの盲目の父がマンツーマンレッスンを一年やってくれたという設定です。付き合いが濃い!その分裏切られたら全員ぶっ殺す!
マンツーマンレッスンではミルトンの「失楽園」を読んだとか。怪物「なかなか面白かった」
女クリーチャーは美しいタイプで、完成間近で破壊されます。
↑いろいろな派生作品を見て分かったんですけれど、所謂「フランケンシュタインの花嫁」は作られたり作られなかったりしますね。観たことないけど「ブライド」っていう映画もあったよね。
あとこれは初めて観たのですが、花嫁を得られなかった怪物が、エリザベスを強姦するシーンが出て来ます。これにはさすがの博士もガチ切れマックス!ていうかありそうな話なのに今まで見なかったことにビックリだな?原作も書かれてないけど、確かに犯されててもおかしくないよな……。
まとめるとそんな感じですが、特にラストが他と違っていて。
フランケンシュタイン関連の作品を沢山読んだり観たりしたけれど、こんな結論の出し方は初めて観た。これがやりたかったからこういう企画にしたのか?(逆も然り)
原作通り北極まで怪物は逃げ、それを博士が追います。
博士が死んだと思った怪物が、涙ながらに自分が愛されたかったのだと告白します。
これはフランケンシュタインのラストに必ず出てくる、怪物の哀切を顕著に表すシーンなのですよね。名前もつけてくれなかった、自分を愛してくれなかった父親を、本当は愛していたと語るシーン。
でもこの博士、瀕死だけど息を吹き返して、この告白を聞いていたことになります。
だいたい博士が死んだ直後にウォルトン船長が聞くことになる告白を、博士が直接聞いてくれるんです。そして博士は言うのです。「私にはお前しかいない」と。
大事なものや人、そういうものを拒み続けて自分の野心に生きた結果、全部失ってしまった博士にはもう怪物しか残っていないということ。
それを聞いた怪物はさっきまで泣きながら本当は愛していると言っていたのに、大喜びしながら追いかけっこを再開します。博士もまた追いかけるから早く行け!と言います。
「来なさい科学者、私を殺しなさい。貴方の創造を殺しなさい!」
と叫ぶ怪物と、それを追う博士がゆっくりと舞台の向こうに消えて幕となります。
これ、私としてはかなり、フランケンシュタインとしては異例のハッピーエンドじゃないか?と。だって絶対にこの告白を今まで怪物は聞いてもらえなかったし、博士は聞いてくれなかったんだから。
怪物が自分への愛情を初めて確認できた、良かったねえ愛されてたじゃん!?と。
「フランケンシュタインとしてはハッピーエンド」なだけで、絶望的な状況には変わりないのですが……。
あとは原作含め、通常は博士の視点からの物語ですよね。NTL版は怪物の視点から描く(と脚本家もインタビューで言っている)ことで、逆に博士という人間が浮き彫りになった気がします。原作の感想を書いた時も博士のことを無責任とかマッドサイエンティストとか怒ってたけどまあこれなら許してやるよくらいの人間に(偉そう)。
お互いに孤独であり、憎み合っているけれど、お互いしかいない。
だから二人は同じ役者が演じ合うのだと、自分を理解するためにお互いが必要なのだと。この演劇の企画自体が「フランケンシュタイン」が描いた問題への、一つの解なんですね。すごいな、企画自体が答えなんて。勿論演技は素晴らしかったし、演出もかっこいいんだわ~。
カンバーバッチ博士&ミラー怪物の方が物語として観る場合、王道とは思います。
(実際こちらの方が合ってるという意見が多いようで、こっちを見たらもう片方は見なくていいとまで言われてるらしい……)
私は逆のカンバーバッチ怪物&ミラー博士の方が企画の意図としては成功している印象を受けました。まあ観た順番なのかもしれないけど。
なんていうかミラー博士は絶対にバッチ怪物を殺せなさそうというか最期まで追いかけてくれそうなんですよね、寧ろそれが悲劇的というか。バッチ怪物は殺してやった方が救いがあるのに殺せない博士ですね。
バッチ博士は殺す気満々だけどミラー怪物はどこまでも追いかけてほしい、愛に飢えている子供のような怪物なので、うん、需要と供給が一致してない!
あと帰り道で「博士が/怪物が女だったら?」というif話をしていたんだけど、全然成立しないという結論で笑った。
博士が女だったらどんなに見にくくても見捨てない気がするし、怪物が醜い女だったら、(現実問題醜い女は多かれ少なかれ迫害されていることが共通認識として存在するので)リアリティありすぎて問題が変わってしまうんじゃないかと。
やはり男が男を生み出した話だから成立するんだよ「フランケンシュタイン」は。メアリー・シェリーの着眼点で一番スゴイところはそこかもしれません。本人は妻子ある男性と駆け落ちする恋に一直線な(???)女の子だったので……どうしてこんなこと書いてしまったんだろう。友達になってみたい、メアリー・シェリー。
*1:このお約束のルーツ、やはり1931年の映画なのかな?